治っても死ななくなるわけではない
メールをご紹介します^^ ◇ 老子の「足るを知る」という言葉。私も好きな言葉です。(中略) 仙人になって修行というのは、自分さえ悟りの境地に入って幸せになれればいいのかと自分勝手な気もします。 この俗にまみれた世間の中に入って修羅場を潜り抜けながら試行錯誤しているだけでも充分修行できるので、わざわざ仙人にならなくてもいいのではないかと思ってますが、 どうなのでしょうか。 (ひまわり さん) ◇ ありがとうございますっ ^^ いやホントそれ。 ひとり山の中で何かを得ようとしても何も得られず、 たとえ得られたとしてもさぞつまらないでしょう。 ひとにお返しするために もがいてこそ 得るべきものが得られる。 むしろ、山を下りるべき。 法然(ほうねん)も親鸞(しんらん)も始めは山で修行していて、 これじゃダメだと山を下りました。 欲をなくそうとしたところで、欲はあるのだから。 ていうか欲が「ある」んじゃなくて、 欲がわたし、 わたしが欲なんだから、 醜いままが美しい、汚いままで輝くわたしにならないと、 キリがない欲を持ったままで満ち足りることは永遠に不可能です。 問題はどうやってそんな状態になるか。 クイーンのデビュー曲 「炎のロックンロール(Keep Yourself Alive)」 にこういう歌詞がある。 「『キミは毎日が良くなっていると思うかい?』 『いいや、毎日が墓場に向かっていると思うよ』」 だからキープャセルファライヴ!! 今を生きようぜ! てなるのであるが、 うん、そうなのだが、 今を満足するには その「モヤっとした心」を片付けておかないといけないのだ。 芥川龍之介は、35歳で自殺する直前、友人にあてた手紙のなかで 「ぼんやりとした不安」 と書いている。 自分がなぜ死ぬのかというと、理由は、ただぼんやりとした不安であると。 しばらく文学者のあいだで、この「ぼんやりとした不安」とは何であるか、かんかんがくがくの解釈がつづいた。いまも芥川を研究する者はこの問題が避けて通れない。 なぜ売れているまっさいちゅうの35歳で自殺したのか。 死を強く意識していた晩年の作品から見えるのは、「どうせ死ぬのになぜ私は生きているのだ」という煩悶(はんもん)である。 一度この悩みにとりつかれてしまうと、何をしても無意味に思えてしまうのだ。 昭和2年...