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ラスボス探し

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 ゲーム「ドラゴンクエスト3」の大魔王・ゾーマは、暗い迷宮の奥深く、最終決戦をまえに主人公に問う。 「じろーよ。なにゆえ、もがき、生きるのか?」(名前を入力してあるので名前で呼ばれる)  わたしが答えられずにいると(システム上答えられんのだが)、「さあ、わが腕のなかで息絶えるがよい」と、ものすげー貫禄で襲ってきて、音楽も、故・すぎやまこういち先生渾身の傑作「勇者の挑戦」に切り替わり、子供だったわたしは鳥肌が立った。  ゾーマは倒した。しかし、勇者になった私は母の顔をみてからエンディングに向かおうと実家のあるアリアハンに立ち寄ろうとしたのだが、二度と帰れないことがわかり、なんのためにがんばったのか、虚無感とともに、ゾーマが投げかけた問いは長く松井少年のなかに残ることになった。  ちなみにこのドラクエ3から、ラスボスという概念が生まれた。はじめ主人公は、「敵は魔王バラモスじゃ!」と王様からきいて旅にでるのだが、バラモスを倒して凱旋すると、「みなのもの、祝いのうたげじゃ!」とやっているさなか真の大魔王ゾーマが現れ、兵士たちを殺したあと姿をくらましてしまうのだった。じつはこのゾーマが最後のボス、ということでラスボス。  おとなになった松井は、クローン病になり、長い旅にでることになった。  いろんな人に、いろんなことを言われた。「クローン病は絶対に倒せぬ」「じろーよ。敵は免疫じゃ! 免疫を殺してまいれ」「この薬で免疫などイチコロじゃ!」  いやそれちょっとおかしくねと情報をきき回ると、「ほんとうは免疫さんは味方なのですよ。免疫と手を組みなさい」「だが味方になった免疫はまだ弱い。免疫を育成するのだ」「さすればクローン病は消え去り、世界に平和がおとずれるであろう」  いろいろやった。治らなかった。なにか足りない。何だ。ラスボスはどこにいる。 「じろーよ。なにゆえ、もがき、生きるのか?」  ゾーマが投げかけた、この問いそのものが実生活においてはラスボスである。  免疫を育てる治療は苦しい。それはそれは痛い。つらい。  だが難病が治るまでの長い旅で、つらいのは体の苦痛よりも、精神の苦痛だった。  こんなつらい治療をして治るのか、治らないのか。治るとして、5年後なのか、10年後なのか、30年後なのか、先が見えない不安がきつい。  だが、もっときつい、最も恐るべき精神的苦痛があった。 「

いまの判断は常に最善の判断

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 たしか「半沢直樹」のシーズン2だったと記憶するが(ちがってたらゴメン)、堺雅人さんが(ちがうかも)、銀行の階段を降りながら仲間にこぼした。自分がしていることは正しいことなのだろうか。正しいと思ってしているが、ほんとうにこれでいいのか、わからなくなると。  仲間が励ます。  そんなことは誰にもわからない。それは結果が出て初めてわかることだ。だからおれたちは、そのときそのとき、正しいと思うことをするしかないんだ。と。  このメルマガは、松井二郎がジャーナリストとして、そしてなにより難病が治った経験にもとづいて、「これが正しい」と判断したことを書いているものです。  いつも迷ってきました。調べに調べて、どうもこれが正解っぽい、と、いちおうそのときは判断して、決めたからには迷わず全力をつくす。そうしてきました。  で、いま、どうやらほとんど治ったっぽい。「あ、正しかった。」と、ようやく確認できた次第です。  17年かかりましたがー。笑  これからもわたしの情報発信はこの連続です。それはすべてのことが、すべての人がそうであるように、わたしもそうなのです。  なのでわたしの拙文を、ありがたいことに読んでくださっているあなたも、あくまでも参考にとどめて、最後は自分で決断してください。そしてその決断は、すべてのことがすべての人がそうであるように、絶対の正解なのかどうか、そのときはわからないことを知っておいてください。冷静に、なるべく多くの情報を集め、なるべく公平に情報を整理して、最後は自分のポリシーにしたがって決めるのです。それを正しい判断と呼んでまちがいありません。  で、きょうはいただいたメールにお答えします。  お悩みが深刻なので、わたしは、こうしてくださいとは言えない内容です。でもお答えしたい。でも責任がとれない。あーどうしよう。  うん。わたしが正しいと思うことを書こう。それしかない。  ではどうぞ。  いつもメルマガを読ませていただいています。もう何年になるかわからないぐらいです。甲田先生・松本医院・シャカの言葉・ユーグレナでご快復されていること、自分のことのように私も嬉しいです。 以下私ごとですみませんが、歯の扱いについて岐路に立っています。 奥歯の詰め物(金属)が虫歯で外れてしまったため歯科に通い始めたものの、神経まで達してしまいました。 今後治療を受ける上で薬剤

治っても死ななくなるわけではない

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 メールをご紹介します^^   ◇ 老子の「足るを知る」という言葉。私も好きな言葉です。(中略) 仙人になって修行というのは、自分さえ悟りの境地に入って幸せになれればいいのかと自分勝手な気もします。 この俗にまみれた世間の中に入って修羅場を潜り抜けながら試行錯誤しているだけでも充分修行できるので、わざわざ仙人にならなくてもいいのではないかと思ってますが、 どうなのでしょうか。 (ひまわり さん)   ◇   ありがとうございますっ ^^  いやホントそれ。  ひとり山の中で何かを得ようとしても何も得られず、 たとえ得られたとしてもさぞつまらないでしょう。 ひとにお返しするために もがいてこそ 得るべきものが得られる。 むしろ、山を下りるべき。 法然(ほうねん)も親鸞(しんらん)も始めは山で修行していて、 これじゃダメだと山を下りました。  欲をなくそうとしたところで、欲はあるのだから。 ていうか欲が「ある」んじゃなくて、 欲がわたし、 わたしが欲なんだから、 醜いままが美しい、汚いままで輝くわたしにならないと、 キリがない欲を持ったままで満ち足りることは永遠に不可能です。  問題はどうやってそんな状態になるか。  クイーンのデビュー曲 「炎のロックンロール(Keep Yourself Alive)」 にこういう歌詞がある。 「『キミは毎日が良くなっていると思うかい?』 『いいや、毎日が墓場に向かっていると思うよ』」 だからキープャセルファライヴ!! 今を生きようぜ! てなるのであるが、 うん、そうなのだが、 今を満足するには その「モヤっとした心」を片付けておかないといけないのだ。  芥川龍之介は、35歳で自殺する直前、友人にあてた手紙のなかで 「ぼんやりとした不安」 と書いている。  自分がなぜ死ぬのかというと、理由は、ただぼんやりとした不安であると。  しばらく文学者のあいだで、この「ぼんやりとした不安」とは何であるか、かんかんがくがくの解釈がつづいた。いまも芥川を研究する者はこの問題が避けて通れない。  なぜ売れているまっさいちゅうの35歳で自殺したのか。  死を強く意識していた晩年の作品から見えるのは、「どうせ死ぬのになぜ私は生きているのだ」という煩悶(はんもん)である。  一度この悩みにとりつかれてしまうと、何をしても無意味に思えてしまうのだ。  昭和2年