病気とは、「どの位置に立つか」ということ
「原稿はどうなったら完成なんですか?」
漫画家の、たしか荒木飛呂彦先生だったと記憶するが(原泰久先生だったかな……)テレビのインタビューにたいして「自分がこれで完成と決めたところが完成です」と答えていた。「でないと、ずーっと描いていられるんで」。
並べて語ってはいけないが、わたしも文章を書くとき「もうこのへんで」というところで切り上げている。
1回のメルマガは、その日の調子にもよるがだいたい2時間くらいで書き上がる。しかし問題はそこからだ。そのままでは配信できない。料理でいえばまだ下ごしらえができた状態にすぎない。そこから、人さまに出せる料理につくり上げていかねばならない。この言葉は変えたほうがいいか、こことここは順番を替えたほうがいいか、いやバッサリ削除、いややっぱり元に戻そうとやっているうちにさらに3時間、4時間が過ぎる。数日直していることもざらだ。
最高の文章をと思うと、ずーっと直していられる。完璧になってから配信しようと思うと、1回のメルマガを一生書いていなければならない。いつも、これでいいのかな、おかしいところはないかな、ああ不安だ、やめよか、どしよか、エイッ! と配信している。
「もうこれで完成、ということにしよう」
そこを決めなければならない。
完成をめざしつつ完成を放棄しているかんじだ。
わたしはいま、腹痛はない。下痢もしない。熱も出ない。数値もすべて正常。
完治といっていいとおもう。
だが、完治という言葉が、どうも、しっくりこない。
完治とは?
「うん、これで完治ということにしよう」
そう自分で決めたところが完治である。
でないと、一生治療していられる。
わたしは、治った。自分がそう感じているのだから、そうなのだ。
わたしが治るために必要だったこと。
それはまず、治った状態と治っていない状態の線引きをやめたことだ。
病気である状態と病気でない状態の線引きをやめたことだ。
クローン病という状態からクローン病でない状態をめざすことをやめたことだ。
これらの認識がまちがいであることに気づいたということだ。
不可能なことをやめたということだ。
わたしは生きるために病気を治そうとしているのであって、病気を治すために生きているのではない。
不可能なことへの取り組みはエネルギーの浪費だ。そのエネルギーは正しい努力に使わなければならない。正しい治療のエネルギーに変えなければならない。
病気とは何だ?
そんなもの、ありはしないのだ。
病気という言葉が病気を定義しているだけだ。
どんな人にもクローン病という状態が、0から100まである。0の人もいれば100の人もいる。自分はどの位置にあるかというだけのことなのだ。そういう意味ではすべての人が病人であり病人ではないのだ。
病人とは何だ?
医者が「あなたは病人です」と言ったときにその人は病人になるのだ。それは定義にすぎないのだ。しかも誤った定義である。
自分が病人かどうかは自分が決めればいいだけのことだ。
わたしは始めから病人などではないのだ。病人であるが病人ではないのだ。
では、わたしは何だ?
「わたしは人間である。」
それだけだ。
だれだってどこかしらおかしいところはある。いや、まて。「おかしい」? おかしいとは何か? そんなもの、ありはしないのだ。逆立ちして街を歩いている人がいたら、おかしい人である。ところがこの世に上も下もないとしたら? その人がおかしい人とだれが決めるのだ? じっさい宇宙からみたら地球の表面に上も下もない。ブラジルからみたら日本人は全員逆さに立って生きている。
どこに立つかというだけのことなのだ。
わたしは病人。そんなこと、だれが決めた? 医者からみたら病人、医学からみたらクローン病、というだけのこと。
「クローン病をやめる」という考えはまちがいだ。クローン病という状態など、ありはしないのだから。その状態をやめるためのエネルギーはすべてが浪費になるのである。
そこでわたしはクローン病であることを忘れてみた。
メルマガにクローン病のことをいっさい書かないことにした。電子書籍も未完にちかいかたちで完結させた。
わたしはクローン病であることで劣等感をもっていた。人間として何か足りない。いつもそれを埋めようとしていた。それをやめた。
するとクローン病と定義される状態から脱していた。治っていた。
つづく。
◆編集後記
きょうの原稿も、そりゃあもう直しましたとも! 笑
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