完治だとおもうが完治という言葉がしっくりこない

 近所の桜の木を写真にとった。このブログの第1回目に掲載するためである。葉桜のあざやかな緑が青空に映えてきれいだ。
 だが、困った。青空のちょうどいい位置に電線が写りこんでいるではないか。これじゃ台無しだよ。
 てことで電線を追いやるために写真の中ほどを切り抜いた。ついでに建物も追いやった。これで写真から生活臭が消えた。

 だがこの写真は現実からは遠ざかった。

 写真は現実の一部分を切り取ったものである。現実そのものではない。ジャーナリストがカメラに収める映像も、現実を知る手がかりになるものである。すべて理解した気になってはならない。

 同じことが言葉にもいえる。
 いや、言葉ではもっとこれが顕著だ。




 たとえば「そのときわたしは幸せであった」と書いたとしよう。この文章には「幸せ」という状態以外のすべてのわたしの状態が削(そ)ぎ落とされている。
 幸せの中にも苦しみがあり、不安あり、焦りあり、怒りがあり悲しみがある。そのそれぞれに、幸せが60%で苦しみが20%で、怒りが何%で……という揺らぎがある。

 それを「わたしは幸せであった」と一言(いちごん)のもとに無視してしまうのだ。

 幸せという言葉には、幸せ以外の全てが捨てられている。
 言葉というものは断片的である。

 そしてわたしたちは言葉によってしか世界を認識するすべがない。

 わたしたちは言葉で世界を知る。桜の木は目にみえているだけではただの物体である。「桜」という名が与えられた瞬間、わたしたちはそれを桜の木と認識する。世界は言葉によって形づくられていく。「世界は言葉でできている」というテレビ番組があったが、名タイトルだ。ひとりひとりが、それまでの人生で得た言葉によって世界をつくり、自分だけの世界を見ている。同じ景色をだれひとり同じ景色として見ることはできない。70億人が理解し合えない理由がここにある。

 言葉が世界になる。
 とくに書物によって世界を知るとき、わたしたちにとって言葉が世界である。

 「難病の原因は化学物質とヘルペスウイルスである」

 これは正しい。
 しかし言葉は断片的である。
 すべてを理解した気になってはならない。


 あるところに6人の盲人がいた。彼らは初めてゾウに触れる機会をえた。それぞれがゾウにさわったあとで、感想を述べあった。

 「いやあ、どんな珍しい生き物かとおもったら、なんのことはありません。ゾウというのは蛇みたいなものですね」

 「そんなことはない。ゾウは面白い動物です。まるで、うちわのようです」

 「ちょっとまちなよ。ゾウは棒みたいな生き物じゃないか」

 「なにをいっているんだ。ゾウは壁みたいだ」

 「きみたち、ふざけてはいけない。ゾウは木のよう」

 「みんな分かっていませんね。ゾウは、ほうきみたいな生き物ですよ」

 蛇と言った者はゾウの鼻をさわったのである。
 うちわと評した者はゾウの耳をさわった。
 棒と主張した者はキバを。
 壁と思った者は腹を。
 木と感じた者は足を。
 ほうきと認識した者はゾウのしっぽを、それぞれさわったのである。

 全員が正しい。
 そして全員がまちがいだ。
 これを「群盲(ぐんもう)象を評す」という。


 このことを理解していないと病気は治らない。
 そもそも治るという言葉が断片的であることを賢明な読者諸氏はすでにお気づきであろう。
 「わたしは治った」と言ったとき、他のすべての情報が削(そ)ぎ落とされている。

 治ったとはいかなる状態であるのか。

 問いを変えるなら、治っていないとはいかなる状態であるのか。そもそも病気になったというのはどこからが病気でどこまでが病気でないのか。コロナウイルスに感染した者はどこからが患者でどこからが健康なのか。クローン病の指標であるCRPという値は0.14以下が正常でそれをこえると異常だが、では0.14のひとと0.15のひとはどれほどちがうのか。突き詰めれば0.149999……のひとはまだ病気でなく、0.15になったとたん病人になるのか。
 数字は現実を知る手がかりであり、現実そのものではない。ここからが病気でここからは病気でないなどというラインはない。世界はもっと曖昧なのである。

 「わたしは病気が治った」とはそういうことである。
 完治したという意味は含まない。

 完治、とは何であろう。
 言葉の意味では「完全に治った」ということである。しかしこの世に、ここからは完全、ここまでは不完全といえるものはない。
 唯一の例外は、いや、話がそれるのでそれは別の機会に述べよう。
 とにかく。
 世界はかくも曖昧なものである。

 このことが分かったからわたしは病気が改善したといって過言ではない。

 つづく。



◆編集後記

 というこの文章も論旨を明確にするためずいぶん切り落としてあります。世界は経験でもできています。ひとりひとり言葉と経験がつくりだした世界にひとりひとり生きているわけです。これを世界内存在(せかいないそんざい)とハイデガーは言い、業界(ごうかい)とシャカは言いました。この説明もはしょりすぎです。どこまでいっても事実そのものずばりを共有することはできません。



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